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2016/09/06


















美居子さまは今日も来られました。









あの世この世のニュースなど;









プーチン大統領:ソ連は日本に2島返還の用意あったが拒否された

ロシア 2016年09月06日 06:57

プーチン大統領は、ソ連は1956年の日ソ共同宣言に従い南クリルの2島を日本に引き渡す用意ができていたが、日本側が同宣言履行を拒否したと述べた。

プーチン大統領は次のように述べた。 「思い出しておきたいのだが、ソ連はこの領土を第2次世界大戦の結果として手に入れ、国際法文書により登録された。ソ連は1956年に長く粘り強い交渉のあと、日本と宣言に調印した。そこには南の2島(ハボマイ シコタン)が日本側に引き渡されると書いてある。

しかし、この場にいるのは全員が法律家ではないため、私は法律家として次のことを言うことができる。

つまり、「引き渡される」とは書いてあるが、どのような条件で引き渡され、どの国の主権が保持されるのかは書いていない」

プーチン大統領によると、日ソ共同宣言の多くの問題がさらなる詳述を必要としたという。 プーチン大統領は次のように付け加えた。

「しかし、調印と発効後、日本側はこの宣言履行を拒否した。日本にはこれだと不足していると感じられ、全4島返還を目指すべきだと決めた。

そして本質的に、どちら側も宣言を履行しなかった。宣言は単に停止して、ソ連もまた後に、これを履行するつもりはないと声明した」

プーチン大統領は次のように強調した。 「ソ連は2島返還の準備ができていたが、繰り返させてもらうが、どのような条件なのかは不明で、宣言には書かれていない。

宣言には、経済活動、安全保障問題に関する問題や、人道的な性格の問題もある。これらすべてはわれわれが注目する領域にある。」

http://jp.sputniknews.com/russia/20160906/2733765.html















奈良のリサイクル工場 破砕機から不明作業員の体の一部か
毎日放送 9月6日(火)7時52分配信

 
奈良市のリサイクル工場で廃材を砕く作業をしていた男性が行方不明になり、破砕機から男性のものとみられる体の一部などが見つかりました。

 
5日午後5時ごろ奈良市のITO・南庄リサイクル工場から「破砕作業をしていた人がいない」と通報がありました。警察によりますと廃材を砕く作業をしていた男性作業員(45)の姿が見えなくなったため一緒に作業していたほかの3人が行方を捜したところ、破砕機の中から男性が使っていたヘルメットの破片や体の一部とみられるものが見つかったということです。

 
この工場では8月20日にも、アルバイト作業員(56)がバックしてきたショベルカーと駐車していたトラックの間に挟まれて死亡していて、警察は工場に捜査員を派遣し事故と事件の両面から調べる方針です。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160906-00000011-mbsnewsv-soci









怪しいなあ・・・あ、臭い・・・これは悪の臭いだ。
ツバメの巣の価値もない那智の巣の臭いがするぞ。
記事コメ;少年ゲリラ

















難民に腎臓とセックスの交換提案 エジプト
国際 2016年09月06日 05:03

専門家によると、エジプトで人間の臓器売買の違法ビジネスが繁栄しているという。

金銭だけでなく売春婦とのセックスすら約束するなど非常に多様な方法で臓器ドナーとなるよう難民が誘惑されているという。ロイターが『British Journal of Criminology』の報告書を基に報じた。


セックスはドナーの承諾を得るための補足的なインセンティブだと考えられている。 エジプトはアフリカや中東から欧州に行こうとしているが金銭に困窮している多数の難民の中継地点となった。

ドナーとなるものの中には、手術台に無理やり、もしくは殺されて乗せられるものもいる。

報告書によると、エジプトで臓器を売った調査されたドナーの多くはスーダンからの難民だ。

また、臓器受取人は肝臓に10万ドル払う用意のあるものもいるが、難民であるドナーはそれより少ない金額を得ている。

受け取ったのはたった4万エジプトポンド(約4500ドル)だと告白したものもいる。

http://jp.sputniknews.com/world/20160906/2733519.html
















数百人の難民の子どもが英国で跡もなく消える
国際 2016年09月06日 01:46(アップデート 2016年09月06日 02:04)

大人なしで英国にたどり着いた数百人の難民の子どもが消え去った。

英紙インデペンデントが英国内務省の情報を基に報じた。

同紙によると、この5年で大人の付き添いなしで英国にたどり着き、養子に取られたり幼稚園に預けられた未成年は9287人いるという。

そしてこの5年間でうち360人が行方不明になり、当局には居場所について全く想像がついていないと同紙が報じている。 消えた子供は人身売買や性的暴行の犠牲者、奴隷になったとの危惧も存在する。

英国の児童委員長アンナ・ロングフィールド氏はすでに政府に、行方不明の子どもを早急に捜索するよう呼びかけている。

先に伝えられたところによると、2016年初めからドイツで行方不明になった18歳以下の難民の数はおよそ9000人だという。

http://jp.sputniknews.com/world/20160906/2733243.html






















カストロ議長 プーチン大統領に石油頼む

© AP Photo/ Felipe Dana
AP PhotoFelipe Dana


経済 2016年09月06日 12:00

キューバ共和国国家評議会議長であり閣僚評議会議長も勤めるラウル・カストロ氏は、キューバへの石油と石油製品の安定供給をプーチン大統領に要請した。5日、インテルファクス通信が情報筋を元に報じた。

現在キューバにはベネズエラからの石油供給上の困難が起こっていると情報筋は述べた。キューバは国内消費をカバーするために国際原料市場参入を余儀なくされた。

ラウル・カストロ議長はプーチン大統領に、キューバ政府は情勢の人口への悪影響を軽減しようとしていると書いた。また、キューバはすでにエネルギー企業の消費の制限対策を取ったという。

ベネズエラでは主な輸出商品である石油価格の暴落により引き起こされた経済・政治危機が続いている。電気エネルギー節約のためキューバは労働者の週労働時間を2日にまで減らした。


http://jp.sputniknews.com/business/20160906/2734272.html















欧州の反抗:「経済NATO」は決裂の瀬戸際にある
2016年09月06日 11:25(アップデート 2016年09月06日 11:32




米国とEUが締結を目指す環大西洋貿易・投資パートナーシップ(TTIP)交渉の事実上の決裂は、最近の議論のテーマの一つとなった。米国はただ締結を望んでいるだけでなく、オバマ米大統領の任期中の交渉妥結を目指して焦っている。

しかし欧州側は急に激しく抵抗するようになった。8月、欧州は本物の攻撃を開始した。
ドイツのガブリエル副首相とフランスのフェクル貿易担当相はTTIPに対する懐疑的な態度を隠そうとはしておらず、TTIP交渉の事実上の決裂について米国を非難した。

しかし米国は事実とは程遠い「持続的な進展」についての声明を表し続けている。これを受けて、ドイツのシュタインマイヤー外相も、欧州の政策の重苦しさについて発言しなければならなくなった。

シュタインマイヤー外相は、米国と欧州のTTIP交渉の現状について発表した米報道官の発言を否定し、14回の交渉で27分野のうち合意に達した分野は一つもないと述べた。 そして今、欧州における一種の「経済NATO」として米国が考えたものが実現する保障はなくなった。



政治学者で雑誌「エクスペルト(エキスパート)」の政治評論家、セルゲイ・マヌコフ氏は、通信社「スプートニク」にこのような見解を表し、次のように語っている-


「欧州が直接的な意味で米国に牙をむき、米国からの命令にくってかかったという明確な印象を受ける。

そして欧州は意図的に自分たちにとって都合のいい時期を待っていたという印象を受ける。米国では大統領選挙が近づいており、米国にはTTIPよりも重要なものがある。恐らくこれは欧州の人々をさらに勇気付けるだろう。

その他にも、このような米国の押し付けに対する反抗に欧州をせきたてているのは、ここ数ヶ月の間に著しく変化したパワーバランスだ。

まず英国のEU離脱。英国で国民投票が行われ、TTIPを一貫して支持していた最大の国である英国のEU離脱が決まった。その他にも欧州の人々はあからさまに不利なTTIPの条件に大きな不満を抱いている。なぜなら環大西洋企業はまず米国企業だからだ。

その圧倒的多数が、TTIPの全ての主な利点を持つことになる大企業だ。もし何か気に入らないことがあれば、欧州諸国の政府との争いで恐らく彼らが勝つだろう。

そこでEUはついに勇気をもって欧州企業の保護を始めたようだ。」


EUはまだ公式的には交渉は続くと述べている。

しかし実際のところ、欧州委員会は世界最大の米企業の1つアップル社を税に関する法律違反で訴え、米国との「税戦争」を始めたかのようだ。

マヌコフ氏は、アイルランドは20年にわたってアップル社に対して税の優遇措置を違法に適用し、EUはアップル社に損害賠償を請求する方針だと指摘し、次のように語っている- 「米国人たちはオフショア活動が大好きだ。

アイルランドでは2社が登録した。アイルランドの法人税は、経済的な奇跡によって非常に低くい。

これは欧州の基準でみてもとても低く、たったの12.5パーセントだ。なお比較すると、米国の法人税はそのほぼ3倍だ。しかし米国は12.5パーセントでも不十分だと思った。

そこで彼らは10年以上にわたってわずか1パーセントあるいはそれ以下の支払いを可能とする非常に狡猾な合意をアイルランド当局と結んだ。

欧州委員会は調査を行い、アップル社が競争法に違反していると発表した。米国は自国のビジネスマンたちを身を挺して守るために立ち上がった。そしてほぼ強い口調でEUに彼らに関与しないよう要求した。

なおその際米国人たちは、非常にささいな罪に対して自国で自分たちが欧州企業に対して容赦なく罰金を科しているのを忘れているふりをした。

そして欧州の人々は、米国では欧州のビジネスマンや銀行家たちにあまりにも厳しい態度がとられているのは理にかなっていないとの印象を持つようになった。

そこで欧州は今回、米国をひどく驚かせたのだ。EUはアップル社への非難を否定せず、むしろ130億ユーロという多額の罰金を命じた。

また、税納付について疑わしいスキームを持つ他の米国企業についても話されている。」 これを背景に欧州企業は米国からの報復戦争と巨額の罰金に備えて準備する必要がある。

EUはこれを理解している。そしてこのような緊張は、欧州が反乱を起こしたことを明確に述べている。

欧州は残った自分たちの経済主権を維持できるだろうか?欧州の政界および経済界では、西側による対露制裁によってEUが苦しんでいるという不満の声がさらに大きくなっている。

だが欧州に、TTIP締結について最近米国が行ったように、米国からの政治的圧力に大声をあげて抵抗する決意はまだない。


http://jp.sputniknews.com/opinion/20160906/2734426.html
















台風13号発生 8日(木)に東日本へ接近か
ウェザーマップ 9月6日(火)10時11分配信

 

きょう午前9時、沖縄の宮古島の北北西およそ90キロで台風13号が発生した。台風は6日夜には沖縄本島に接近し、7日(水)朝には九州の南を通る見込み。

その後、8日(木)朝には東海沖へ進み、東日本太平洋側にかなり近づくおそれがある。

 
午前9時現在、台風の中心気圧は1002ヘクトパスカル、中心付近の最大風速は18メートル、最大瞬間風速は25メートルで、ゆっくりとした速さで北東に進んでいる。台風が接近する沖縄本島地方ではきょう(6日)夕方から、暴風や大しけとなるおそれがある。沖縄・奄美、九州南部は暴風や高波に警戒・注意が必要だ。
 
 

また、7日(水)にかけて前線が停滞する西~東日本では、台風の外側を吹く湿った空気が流れ込む影響が重なり、大雨となるおそれがある。

台風は8日(木)にかけて暴風域を伴い、近畿~東日本太平洋側に近づく可能性があり、進路によっては北日本でも雨の強まる所がある見込み。

先月から度重なる台風の上陸で大雨となった北日本では、今後の台風の動向に一層の注意が必要だ。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160906-00010001-wmap-soci














































覚書;

悪魔寄生獣イルミナティー[イルミナチス入る身ナチス] ”に嫁がされた貴婦人
ナポレオン1世妃 マリー・ルイーズ・ドートリッシュ



[以下ウィキペディア参照URL]https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%82%B6_(%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%9E%E5%A5%B3%E5%85%AC)






マリア・ルイーザ (パルマ女公)

マリー・ルイーズ/マリア・ルイーザMarie LouiseMaria Luisa
フランス皇后パルマ女公

在位 1810年4月1日 - 1814年4月8日(フランス皇后)1814年6月18日 - 1847年12月17日(パルマ女公)
出生 1791年12月12日 神聖ローマ帝国、ウィーン
死去 1847年12月17日 パルマ公国、パルマ
配偶者
ナポレオン・ボナパルト
アダム・アルベルト・フォン・ナイペルク
シャルル・ルネ・ド・ボンベル
子女 ナポレオン2世、他
王家 ハプスブルク家ボナパルト家
王朝 ハプスブルク朝ボナパルト朝
父親 フランツ2世
母親 マリア・テレジア・フォン・ネアペル=ジツィーリエン
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マリア・ルイーザ(Maria Luisa, 1791年12月12日 - 1847年12月17日)は、神聖ローマ皇帝フランツ2世(オーストリア皇帝フランツ1世)の娘で、フランス皇帝ナポレオン1世の皇后。後にパルマ公国の女公(在位:1814年 - 1847年)。


名前はこの人物の関係する各国語で以下のように呼ばれる。
ドイツ語 - マリー=ルイーゼ・フォン・エスターライヒ(Marie-Louise von Österreich)またはマリア・ルドヴィカ・フォン・エスターライヒ(Maria Ludovica von Österreich)

フランス語 - マリー=ルイーズ・ドートリッシュ(Marie-Louise d'Autriche)

イタリア語 - マリア(マリーア)・ルイーザ・ダウストリア(Maria Luisa d'Austria)またはマリア(マリーア)・ルイージャ・ダウストリア (Maria Luigia d'Austria)

本項では生涯をフランスの皇后およびイタリアの君主として送ったことから、主にフランス語名とイタリア語名で呼ぶことにする。


生涯 [望まざる結婚]

[ナポレオンとの結婚式]

マリア・ルドヴィカはフランツ2世の長女として生まれた。彼女はナポレオンの侵略によってシェーンブルン宮殿を2度に渡って追い出され、ナポレオンは恐ろしい憎むべき男だと教えられ、「ナポレオン」と名を付けた人形をいじめながら育ってきた。彼女は、ナポレオンのジョゼフィーヌとの離婚を知った時に「次に妃として迎えられる人に心から同情すると共に、それが自分でないように願っている」と親しい友人に宛てて手紙を書き送ったくらいであった。

ナポレオン1世と皇后ジョセフィーヌには長らく子が誕生しなかったが、ナポレオンのポーランド滞在中にマリア・ヴァレフスカを懐妊させたことを契機に、名家との婚姻を熱望するようになる。そこで白羽の矢が立ったマリー・ルイーズは、ナポレオンが結婚しなくてはならなくなったと聞かされた時には泣き続けたという。


1810年4月1日、マリー=ルイーズはルーヴル宮殿の礼拝堂で皇帝ナポレオンと結婚式を挙げた。しかし、ナポレオンと共に日々を過ごすようになってみると、自分に対してとても優しかったため、マリー=ルイーズは心を許し、ナポレオンを愛するようになっていった。ナポレオンは彼女をけっして失いたくないと、彼女の機嫌を損ねないように必死だったのである。彼女は後に友人に宛てて「ウィーンでは私が不安の中で暮らしていると思っている事でしょう。でも、事実は違うのです。私は少しもナポレオンを怖いとは思っていません。むしろ、ナポレオンが私を怖がっているのではないかと最近思い始めました」という手紙まで書いている。

社交的でいつも大勢の女官達と談笑していたジョゼフィーヌとは違って、マリー=ルイーズが私室に入れるのは女官長のモンテベロ夫人と衣装係長のリュセイ夫人などごく限られた人達のみで、彼女の部屋はいつも静かだった。ハプスブルク家の皇女といってもつつましく育てられたため、おしゃれにも特に関心がなく、服はジョゼフィーヌと比べると少ししか注文しなかったし、宝石にいたってはほとんど注文しなかった。このため、ジョゼフィーヌが皇后だった時代に大儲けをし、財をなした商人たちの間では、マリー=ルイーズはすこぶる評判が悪かったという。また、ナポレオンの妹達とも打ち解けられずにいた。




[嫡子出産]

1811年3月20日、マリー=ルイーズはローマ王(ナポレオン2世)を出産した。この時、大変な難産で母子のどちらかしか助けられないかもしれないと医師から聞かされたナポレオンは、ためらわず「母を救え!」と言ったという。ナポレオンはこの息子の誕生を大喜びし、とても可愛がったが、マリー=ルイーズはあまりこの子供に関心を示さなかった。
養育係のモンテスキュ夫人は、ローマ王が目覚めるとすぐにマリー=ルイーズの部屋に連れて行った。しかし、小さい子供に慣れていないマリー=ルイーズは、まるで壊れ物に触るように恐る恐る手を触れ、胸に少し抱いただけですぐに子供をモンテスキュ夫人に返してしまった。

午後にはマリー=ルイーズがローマ王の部屋に行くのが習慣だったが、彼女は子供をあやす事もなければ語りかける事もなく、ただ微笑みながら見つめているだけで、女官達が彼女には母性愛が欠けているのではないかと本気で心配するほど、子供の養育を養育係に任せきりにした。そのため、ローマ王が最もなついたのはモンテスキュ夫人で、彼が口がきけるようになって最初に発した言葉は「ママン・キュ」で、夫人を大いに感激させたという。




[ナポレオンの没落とパリ脱出]
しかし、1812年にナポレオンはロシア遠征に失敗し、1813年のライプツィヒの戦いでも大敗する。1814年にはオーストリアのシュヴァルツェンベルク将軍、プロイセンのブリュッヒャー将軍、かつてのナポレオンの部下でスウェーデン王太子となったベルナドット将軍、イギリスのウェリントン公による大規模なナポレオン包囲網が築かれつつあり、さらにナポレオンと帝国は苦境に追い込まれていった。



マリー=ルイーズのいるテュイルリー宮殿では、ロシア・プロイセン・オーストリア・スウェーデン同盟軍のパリ襲撃に備え、彼女とローマ王の処遇を巡り議論が始まった。サヴォリ警務大臣は、皇后が首都を離れる事は帝国崩壊にも等しく、反乱を避けるためにも彼女とローマ王はパリに留まるべきだと主張し、カンバセレス大法官とタレーランもこの意見に賛同した。

しかし陸軍大臣クラルクは、万一の事を考え皇后とローマ王は一刻も早く安全な場所に避難すべきだと主張した。その間、マリー=ルイーズは一言も発する事なくひたすら議論に耳を傾けていた。

議論は堂々巡りを繰り返し、真夜中になっても結論が出ず、ついに投票に持ち込まれた。その結果、マリー=ルイーズはローマ王と共にパリに留まる事になった。



だがその時、それまで沈黙を保ち、投票も棄権したナポレオンの兄ジョゼフ・ボナパルトが立ち上がり、前もってナポレオンから受け取っていた声明文を読み上げた。その内容は「不幸にも、万が一戦いに敗れるような事が生じた場合、皇后とローマ王を速やかにパリからランブイエに移し、けっして敵の手に渡す事がないように万全を尽くすべし」というものだった。

それを聞いたマリー=ルイーズは、この命令には断固反対した。そして「パリを明け渡す事は、ブルボン王朝復活に絶好の機会を与える事になります。私はこのままパリに留まる事こそ、皇帝不在中摂政を任されたフランス皇后としての務めだと思っています」と主張した。

この時マリー=ルイーズは、父フランツ1世を通して、ロシア皇帝アレクサンドル1世およびプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世を説得し、ローマ王をナポレオン2世として即位させる可能性を信じていたのである。



しかし、1814年3月29日朝、マリー=ルイーズとローマ王は10台の大型馬車でランブイエに向けて発つ事になった。しかし、ランブイエにも既に危険が迫っている事がわかり、マリー=ルイーズ一行は、さらに遠いロワール川の方にあるブロワ城に向かってさらに進んだ。城に着いたのは4月2日の夜中だった。


それから6日後の4月8日に、マリー=ルイーズは夫がフォンテーヌブロー宮殿で退位した知らせを受け取った。ナポレオンがいるフォンテーヌブロー宮殿が、自分のいるブロワ城からそれほど遠くないとわかった時、彼女は直ちに馬車を用意させ、ナポレオンの許へと向った。

しかし、その道中ジャン・ランヌ元帥の未亡人であるモンテベロ夫人は、ナポレオン皇帝が国を失った今となっては、せめてマリー=ルイーズとローマ王の今後だけでもフランツ皇帝に嘆願して保証してもらうようにと、執拗に助言し続けた。


モンテベロ夫人は、エルバ島行きなどまっぴらごめんだと思っていた。宮廷の心地よい生活を知った彼女は、地位を失ったナポレオンへの忠誠などさっさと捨て、ブルボン側に付いて甘い汁を吸う事しか考えていなかった。オルレアンに着くと、マリー=ルイーズはナポレオンに宛てて「今すぐにはあなたの所に行かない事にしました。

まず父に会おうと思うのです。エルバ島でのあなたの待遇改善と、私達の息子のためにトスカーナ大公国を要求するためです。もし、今あなたが父に会いに行く事を許してくださるのなら、きっとトスカーナを手にいれる事ができると思うのです。善良な父は私の涙に感動し、きっとあなたの運命も変わる事でしょう」と手紙を書いた。


しかし、当然フランツ1世は娘の訴えなど聞く気はなかった。皇帝もメッテルニヒも、マリー=ルイーズをあくまで一時的にナポレオンの許に嫁がせたに過ぎなかった。そしてトスカーナは元の統治者であるトスカーナ大公フェルディナンド3世(フランツ1世の実弟、マリー=ルイーズの叔父)に返還し、マリー=ルイーズのためにはパルマ公国の統治権をと考えていたのである。

その後4月12日に、モンテベロ夫人の意を受けたと思われる、フランツ2世の使者を名乗る人物が突然マリー=ルイーズの所にやってきて、半ば強制的に彼女とローマ王を連れて行ってしまった。この夜、全てに絶望したナポレオンはフォンテーヌブロー宮殿で毒をあおって自殺を図った。





[ナイペルク伯]


マリー=ルイーズはロシア兵が守備するランブイエの城で、ナポレオンへの手紙を書く事も、彼からの手紙を受け取る事もなく、しばらく過ごす事になった。やがてそこで父フランツ1世と再会した彼女は、オーストリアへと帰国した。フランツ1世はやつれた彼女に、「しばらくエクス=レ=バンにある温泉でゆっくりと静養し、そこからエルバ島に行けばいい」と言った。

その言葉に従い、マリー=ルイーズはウィーンにローマ王を残したまま、保養地のエクス=レ=バンに向った。エクス=レ=バンに向う際、マリー=ルイーズにはメッテルニヒによって付けられた護衛兼監視役のナイペルク伯が同行した。メッテルニヒは彼に「エクス=レ=バンにマリー=ルイーズが滞在中、必要な手段を用い、エルバ島のナポレオンに合流したいという望みを断念させる事。

もしいかなる手段を用いてもエルバ島行きを断念せず実行する場合には、同行すべし」と命令していた。この命令を受けたナイペルク伯は「10ヶ月も経たないうちに恋人になり、それから間もなくして夫になってみせるさ」と豪語した。彼は42歳の妻子ある男性で、フランスとの戦いで右目を失い、ナポレオンを憎悪していた。

マリー=ルイーズは、ナポレオンの誕生日には自分の髪の毛やローマ王の胸像を送り、何通も手紙を書いて送った。一方、ナポレオンの方もマリー=ルイーズがローマ王を連れてやってくるのを心待ちにしていた。そのため、息子アレクサンドルを連れてエルバ島にやってきた愛人マリア・ヴァレフスカでさえ、3日で追い返してしまった。

ところがエクス=レ=バンでは、洗練された貴族であるナイペルク伯が、機知に富んだ会話などでたちまちマリー=ルイーズの心を捉えてしまっていた。そして彼女はついにナポレオンの事を忘れ、ある秋の日に散歩の途中で嵐にあって避難したソレイユ・ドールと呼ばれる簡素な宿舎で、ナイペルク伯と男女の関係を持ったという。このため、1815年2月26日にナポレオンがエルバ島を脱出したとの知らせを聞いて、マリー=ルイーズは仰天した。そして彼女は「再びヨーロッパの平和が危険にさらされる事になるのです」と言った。

3月20日、ナポレオンはマリー=ルイーズに宛てて、帰ってきてくれるよう何通も手紙を書いて送ったが、彼女は一切返事を書こうとはせず「何があってもあの人の許に行くつもりはありません」と言った。





[新たな生活]

[パルマ公女として]

同年6月18日、議会でマリア・ルイーザのパルマ統治が決定された。息子のローマ王が同行できない事を知っても、彼女は少しもパルマ行きをためらわなかった。彼女の頭の中には、ナイペルク伯との新しい生活の事しかなかったのである。

この3ヶ月後にナポレオンがワーテルローの戦いに敗れ、セント・ヘレナ島に流されるのを知ると「これで世の中は安泰です。ナポレオンは2度と平和を揺るがす事ができないのですから。後は、人々が善意と寛容な心を持ってあの人に接してくださる事を望むのみです。

私があの人の運命について関わるのはこれが最後です」とフランツ1世に宛てて手紙を書いて送った。翌1816年3月7日、マリア・ルイーザはナイペルク伯と共にパルマに向けて旅立った。

一方、ローマ王の方は監禁同然の淋しい生活を送り、母マリア・ルイーザと別れてから初めての面会を楽しみにしていた。しかし、マリア・ルイーザは1817年5月1日にナイペルク伯との娘アルベルティーナを秘密のうちに出産すると、ローマ王との約束を簡単に破った。母親に約束を破られたローマ王は大変に悲しんだ。マリア・ルイーザが重い腰を上げ、息子に会いに行ったのは別れてから2年も経った1818年7月の事だった。


この頃、ブラジル皇帝ペドロ1世に嫁いだ妹のマリア・レオポルディーネは不幸な結婚生活を送っており、仲の良かった姉マリア・ルイーザにも手紙を何通も書き送っていたが、なぜか彼女とフランツ1世はレオポルディーネにほとんど手紙を書かなかった。彼女はナイペルク伯と彼との子供達の事しか関心がなくなっていたらしい。結局、マリア・ルイーザは最後まで苦境にあるレオポルディーネの気持ちを真に理解する事はなかった。

レオポルディーネは自分の事をハプスブルク家の犠牲者と呼び、自分は間もなく夫の暴力により死ぬだろうという悲痛な手紙を最後に、ほどなくして29歳で死去している。

ローマ王と再会した後、パルマに戻ったマリア・ルイーザは、1819年8月9日にナイペルク伯との2人目の子供グリエモをやはり秘密のうちに出産し、またしてもローマ王に会うためにウィーンに行く事を中止した。

1821年5月5日、ナポレオンがセント・ヘレナ島で死去した。マリア・ルイーザは「セビリアの理髪師」を観にオペラ座に行った時に偶然見かけた新聞でナポレオンの死を知った。ナポレオンはマリア・ルイーザに、自分の心臓を保管して欲しいと遺言していたが、彼女は「私の願いは、あの人の心臓があの人のお墓の中に葬られる事です」と一言のもとに断り、その代わりにデスマスクを受け取った。

しかし、そのデスマスクもしばらくすると彼女の子供達の遊び道具の一つとなった。

1822年8月15日、マリア・ルイーザはナイペルク伯との4人目の子供になる女児を出産した。1825年には5人目の子供を流産した。この間、ウィーンにいる息子に彼女が会いに行ったのはたったの1回だった。そして9月上旬に、フランツ1世の承諾を得て、彼女はナイペルク伯と正式に結婚した。この頃、ローマ王はライヒシュタット公になった。





[ナイペルク伯の死とその後]


1829年2月22日にナイペルク伯が死去した。彼の遺言には、フランツ1世にもライヒシュタット公にも秘密にしていたアルベルティーナとグリエルモの事が記されていて、マリア・ルイーザは蒼白になった。この子供達はナポレオンが生存中に生まれた子であり、マリア・ルイーザと別居を強いられ、毎日のように訪れる彼女を母と呼ぶ事が許されず、マダムと他人のように呼ぶ事が義務付けられていた。

この事を知ったフランツ1世は愕然としたが「神の前に犯してはならぬ罪を犯し悲しんでいるが、私はお前の父だ。親としての愛を持って許すとしよう」と娘に言った。


1832年7月21日、ライヒシュタット公の教育係ディートリヒ・シュタインの再三の手紙によりやっとウィーンのライヒシュタット公の元へ訪れたマリア・ルイーザは病床のやつれた息子の顔を見て、さすがに良心の呵責に苛まれたという。


同年7月22日、ライヒシュタット公は死去した。翌日、マリア・ルイーザはナポレオンの母マリア・レティツィアに孫の死を手紙で知らせた。
ナイペルク伯亡き後のマリア・ルイーザのパルマ統治の補佐役としてヴェルクライン、次にはマルシャルが来たが、不人気であったりパルマに馴染まなかったりという理由で相次いで解任された。

その後、7月革命までシャルル10世に仕え、フランスに住んでいたシャルル・ルネ・ド・ボンベルが来た。彼は穏やかな人物で、マリア・ルイーザと彼はお互いに好意を持ち、1834年2月17日に結婚した。


1847年12月17日、マリア・ルイーザは死去した。遺体はウィーンに運ばれ、カプツィーナー納骨堂に埋葬された。



[以上。ウィキペディア参照URL] https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%82%B6_(%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%9E%E5%A5%B3







最終更新;2016/09/06 pm22:57
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